生きる

私達に最も身近な存在「生」「死」生きる喜び、生かされている喜びを実感し、感謝ある日々を送りたい・・・

2007年03月03日(Sat)▲ページの先頭へ
9.11 ワールドトレードセンター
ニコラス・ケイジ主演の映画「ワールドトレードセンター」を見た。

周知の通りNY9.11テロ事件。。。


STORY−−−

9.11テロの当日、ハイジャック機が激突したNYのワールド・トレード・センターで人々を誘導し、崩壊したビル地下に閉じ込められた港湾局警察官の救出劇を描く実話物語。主人公のモデルとなった警察官二人とその同僚、家族や関係者に徹底した取材を行い、時間の経過以外は事実に一切手を加えずに映画化したという本作。自らの命を賭けても他者を救おうとする勇気、そして悲劇の中で生まれた助け合いの精神、また逆境の中で“生”への希望をつないだ家族への愛など、テロ事件の裏側で起きていた人々のドラマ。


あの頃の事を思い起こし、残された人たちの話を思い出すと、

他人事のように思えない。

「人の一生は、重荷を背負って遠き道を行くが如し」

徳川家康の言葉。

人生って悲しいね。でも、安らぎや楽しさはその中から

見いだされるほど、より楽しく、より大きな安らぎを

得られるんだろうね。



2006年12月06日(Wed)▲ページの先頭へ
東京タワー
リリーフランキーの「東京タワー」

配役もいい

ストーリーもいい

泣きました

涙が止まりません

あらすじ書きたいけど

・・・

ヒトの優しさは

文字では表せないね。

ヒトの思いやりは

文字では表せないね。

あたたかい気持ちになりました。



2006年12月02日(Sat)▲ページの先頭へ
出産
ジャガーさんがハワイで元気な男の子を出産したそうです♪
おめでとうございますO(≧∇≦)o

ジャガーさんと木下先生とお子さんと3人で幸せな生活が出来る事を祈ってます☆


2006年11月17日(Fri)▲ページの先頭へ
いじめ問題
自分にもそういう時期があった。
「いじめ」ということは大変良くない行為だ。

しかし、「いじめる」側にも苦しい面があるのではないだろうか。
自分に対処できない苦悩に接したとき、しかも、誰にも打ち明けられないとき、だれかにSOSの信号を送りたい。自分の苦しみに気付いてくれない近くの人に憎しみを感じるのではないだろうか。

「いじめ」受ける方は人を責める勇気がなく、自分が居ることが人をイライラさせる。「自分が居なければ、そのイライラから救えるのでは、自分も楽が出来る。自分が目障りな存在なのだ。」と思う。
このときは視野が狭くなり、自分の居所はここしかない。という気持ちが募り、せっぱ詰まってくる。他のことを考える余裕がない様な気持ちになる。

こんなときは、環境の違うところを求めよう。考えを変えようという気持ちを持つことが大切だ。

どうか死ぬことは辞めて、自分の居場所、自分の興味を変えながら、時を待とう。


2006年11月11日(Sat)▲ページの先頭へ
事故死
息子の行く高校の女教師が事故により亡くなった。

まだ24歳という若さだった。

大学を卒業し教師として始まったばかりの人生が

一瞬にして消えてしまうなんて、なんて悲しいことか・・・。

人生の善し悪しは長さではない。

しかし、残された家族や親は、そうも言ってられない。

事故で亡くなる人、癌で亡くなる人、災害で亡くなる人、

闘病を支える人・・・

人は限られた時間を与えられて生まれてくる。

でも、その時間は誰にも分からないから、別れが突然

やってくる。

もしその時間が分かっているなら、みんな散りゆく時を

綺麗に散りたいと願うんだろうな。

「散りぬべき、時知りてこそ世の中の
    花も花なれ 人も人なれ 」


昨今、自殺する若い子が多い。

イジメが原因であっても、前向きに、自殺するほどの

勇気があるならば、生きる勇気を持って欲しい。

生きたくても生きられない人も多くいるのだから・・・。


2006年10月24日(Tue)▲ページの先頭へ
明日の記憶
およそ半年ほど前に予約していたDVD『明日の記憶』が届いた。
渡辺謙 演じる主人公が若年性アルツハイマーが襲い、一日一日記憶が薄れていく。
自分に残された将来への不安やとまどいを、妻を演じる樋口加奈子が支える夫婦の話。
まだ封を開けただけで観ていないけれど、見る前から涙がでそう…

俺たちのすぐ身近にある病気。例えばこの映画のように
若年性アルツハイマーに襲われ、毎日会う仲間や家族、
通い慣れた道や風景が突然、見知らぬ風景や初めて会う
人に変わっていく・・・思い出せない・・・

悲しいけど現実・・俺たちがそんな立場になったとき
いや、そうなったときの為にどれだけのことを今出来るのだろう。

記憶を失っても、わすれないものが、
美しい夕映えの中にあるといいな・・・

楽しみに、土曜の夜は紅茶を飲みながら
ゆっくり見たいな…


2006年10月20日(Fri)▲ページの先頭へ
岡倉大吉さん死去
「渡る世間は鬼ばかり」などテレビや映画の名脇役として活躍した俳優の藤岡琢也さんが20日午後3時18分、慢性腎不全のため、東京都内の病院で亡くなった。

ショ〜ック!!

渡鬼ファン家族としては、大ショック!



今や西田家は大騒ぎ!

ん〜・・・・・

ご冥福をお祈りします(;;)


2006年10月08日(Sun)▲ページの先頭へ
シンドラーのリスト
長崎に来てからDVD「シンドラーのリスト」を見た。
これまでに「戦場のピアニスト」など似たような映画も見たが、これも事実に基づいた、それも生存者の言葉に基づいた悲しい映画だった。
同じ人間として生まれ、時代と場所でこうも運命が変わることを考えると、ヒューマニストになる自分に気がつく。
わたしち人間は、人を愛し、人の上に成り立ち、人のために生きるべきであると考えさせられた。
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ものがたり

1939年、ナチスドイツのポーランド侵入とともに、ポーランド南西部の古都クラクフに一人のドイツ人がやってきた。男の名はオスカー ・シンドラー。実業家の彼は、ナチス党員でもあった。クラクフにやってきたとき、ほとんど無一文だった彼は、巧みな話術でドイツ軍上層部に取り入って名前と顔を売る。さらにユダヤ人会計士イツァーク ・シュテルンをパートナーとしてスカウトし、倒産した工場を買い取って「ドイツほうろう容器工場(D.E.F.)」の経営に乗り出した。
そのころ、ユダヤ人は家を追われ、狭いゲットーで暮らすことを強制され始めていた。イツァークの斡旋によって彼の工場に多くのユダヤ人が雇われたのは、彼らがほとんど無償の労働力として使えるという理由からでしかなかった。彼らに支えられて、工場は軌道に乗っていく。
ところが、今度はユダヤ人はゲットーから追い出され、強制収容所に入れられることになる。
1943年3月13日、クラクフのゲットーも解体される日が来た。男、女、子ども。家族は引き裂かれ、抵抗する者、逃げようとする者は容赦なく射殺される。病院では医師が患者に劇薬を飲ませ安楽死させる。
その様子を丘の上から見ていたシンドラーの目に赤い服を着た女の子が目に留まった。やるせない表情でゲットーの混乱を見つめるシンドラー。
ユダヤ人たちはプワシュフ収容所に入れられた。所長として着任したのはアーモン・ゲート。彼は、気まぐれにライフルでユダヤ人を狙い撃ちする残虐極まりない男だった。労働力を失い工場を休業せざるを得なくなっていたシンドラーはゲートのもとを訪れ、生産効率の向上を名目として、自分の工場の敷地内にプワシュフ収容所に付属する私設収容所を作りたいと申し入れ、シンドラーの収容所が実現する。
収容所のユダヤ人たちの間には、シンドラーの工場にいさえすれば殺されることはないという噂が広まり、ひそかに志願者が増えていく。
1944年に入り、ソ連軍の反撃が始まった。ある日、シンドラーは空から灰が降り注ぐのを見る。それは、プワシュフ収容所ですでに殺され埋められていたユダヤ人の死体が掘り起こされ、焼却される灰だった。運ばれる遺体の中にはあの赤い服の女の子の姿もあった。ナチスは、ソ連軍の進撃にともない、証拠隠滅のため収容所の閉鎖を決定したのだった。残るは絶滅収容所アウシュヴィッツのみだった。シンドラーの工場も閉鎖されることになり、彼の工場で働いていたユダヤ人たちもアウシュヴィッツのガス室に送られることは明らかだった。
シンドラーは最後の賭けに出る。ゲートに掛け合い、多額のカネにものをいわせて、彼らを自分の生まれ故郷であるチェコスロヴァキアのブリンリッツへ連れていくことを承知させたのだ。シュテルンとともに彼は1,000人を超えるユダヤ人のリストを作る。そのリストこそ、生と死とを隔てる“シンドラーのリスト”だった。
こうして、リストに載ったユダヤ人たちは、貨車に乗せられてブリンリッツに向かう。ところが、女性の乗った貨車だけは、手違いからなんとアウシュヴィッツに着いてしまう。ここでもシンドラーは収容所長にワイロを送ることによって彼女らを連れ戻す。
シンドラーはこうして、数百万マルクのカネを使ってユダヤ人1,200人を救ったのだった。1945年5月、ドイツは無条件降伏し、戦争は終わりを告げる。自由の身になったユダヤ人たちは、金歯を加工して作った指輪を立ち去るシンドラーに贈る。アーモン ・ゲートは処刑される。シンドラーは戦後結婚にも事業にも失敗するが、1958年イスラエルで“正義の人”に選ばれ、イェルサレムのホロコースト記念館の前の“正義の大通り”に植樹した。
彼が救った“シンドラーのリスト”の子孫たちは今や6,000人を超えるという。



2006年08月17日(Thu)▲ページの先頭へ
レモン哀歌
久しぶりに、高村光太郎の「智恵子抄」を
読みました。
そんな中でも、「レモン哀歌」 は
思い出に残る詩です。
たまには読んでみませんか?

生きることは、すごく難しいなと思います。
命の瀬戸際は、人の心が正直に出るのではないでしょうか。
智恵子の愛にうたれる詩だと感じます。

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「レモン哀歌」 高村光太郎」

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう


2006年08月09日(Wed)▲ページの先頭へ
長崎原爆の日
映画「男たちの大和」を見た。

今日、長崎原爆の日。

空襲、戦争、多くの人、若者、子供、

犠牲になった方々の冥福を祈りたい。

その上に、今の平和が成り立っていることを

忘れないようにしたいものだ。

親兄弟を失う悲しさ、離ればなれに生きる辛さ、

この映画の趣旨を知るとき、涙が心を洗う様な気がする。

戦争を体験したわけではなくとも、

今日、若い子も、心に刻んで欲しいとねがう。

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被爆61周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典(平成18年8月9日挙行)
 での奉安数等は次のとおりです。

 ◎新たに追加奉安される原爆死没者名  2,831人
 ◎原爆死没者名簿登録者数  140,144人※
 ◎死没者名簿の冊数 141冊

 ※原爆死没者名簿登録者数140,144人は、原爆死没者動態調査等
 により1年間に生存及び重複等が判明した26人を17年奉安者数
 (137,339人)から差し引いた数です。


2006年07月27日(Thu)▲ページの先頭へ
上原 俊郎さん 兄様死去
都城出身で以前写真をアップしたことのある

上原俊郎さんの兄様が亡くなられました。

26日早朝とのことでした。

東京ロマンチカ時代からずっと、弟の心配を

してきた優しい兄様だったと思います。

眠るような遺体の前で、過去のいろんな事を

思いだし、私なりの反省と、お悔やみを言って

きました。

葬式は本日 7/27,12時, 上長飯町の「のもとホール」です。

心からお悔やみ申し上げます。
安らかに。


2006年07月16日(Sun)▲ページの先頭へ
甲斐智枝美さん43歳
訃報:甲斐智枝美さん43歳


甲斐智枝美さん43歳(かい・ちえみ<本名・長谷部智枝美=はせべ・ちえみ>元歌手・タレント)
10日、心不全のため死去。葬儀は12日、自宅のある千葉県習志野市内で
営まれた。喪主はミュージシャンの夫長谷部徹(とおる)さん。



えええええええーーー
43なんてまだまだ若いのに、心不全なんて(泣)
昔好きだったなぁ・・・
可愛かったし。
あーなんだかショック

合掌

22時50分追記
甲斐智枝美さん 死去 43歳
ここには

アイドル歌手や女優として活躍した甲斐智枝美(かい・ちえみ、本名・長谷部智枝美=はせべ・ちえみ)さん(43)=が10日朝、
千葉県習志野市の自宅で首つり自殺していたことが、12日わかった。

市消防本部によると、10日午前6時45分ごろ、甲斐さん宅からの119番で
駆け付けた救急隊員が、甲斐さんの死亡を確認した。
自宅2階の寝室で首をつって死んでいたという。
県警習志野署の検視の結果、自殺と断定された。



これ本当なの?
なんか悲しすぎ(泣)


2006年05月31日(Wed)▲ページの先頭へ
内藤やす子、脳内出血で緊急入院
歌手の内藤やす子(55)が、脳内出血のため入院中であることが30日、明らかになった。関係者によると、内藤が倒れたのは28日。福島県でのディナーショーの最中に体調を崩した。ステージで歌い終えたところで倒れ、救急車で病院に運ばれた。命に別条はないが10日間は絶対安静の状態で、現在は福島県内の病院に入院し集中治療室に入っている。今後は容体を見つつ、都内の病院に移る方針という。

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最近の医学では、例えば糖尿病は子供からでも
発症するとか、くも膜下出血や痴呆も決して
高齢者の病気ではないと、実例もあり、報道も
しっかりされて、我々の認識度も昔よりぐんと
高くなっていると思う。また、インターネットでも
すぐに情報が取り出せるので、関心度も高く
なっているのではないか。
とはいえ、内藤やす子 さんの様に若くても
突然脳内出血に襲われる事実を目の当たりにすると
我々も、もっと健康に注意する必要があるなぁ
と感じるが、一方で、どんなに注意していても、
自分の体であっても予想すら出来ない。
昔から、腹八分目と言われている。食事も
タバコも、酒も、過度の摂取は禁物と云うことですね。
内藤さんの、早期の回復をお祈りします。
          ”弟”時代からのファンより。


2006年03月25日(Sat)▲ページの先頭へ
イラク復興支援〜立花尊顯1等陸佐の講演を聞いてB
今日は、イラクで活動されている復興支援隊の方々の
感じられたことや現地の状況、サマーワの人々の
日本から来た自衛隊への気持ちの変化等を紹介します。


「日本人らしさ」が地元での評価につながる

2004年に自衛隊がイラクで活動を開始してから2年。今日までに手がけた復興支援のプロジェクトは約120件に上る。現在、サマーワで活動中の第8次イラク復興支援群の指揮を執る、立花尊顯群長は、現地で活動する上で気を付けていることが2つあるという。「まず、一次隊からずっと『(イラク人と)同じ目線』ということでやっています。『同じ目線』というのは、相手を敬う気持ちです。われわれは支援をする側だというのではなく、お互いに協力していこうという気持ちを大切にしています。イラクの人たちが主役であるということを忘れてはいけないと思います。もうひとつが、『日本人らしさ』『日本らしさ』を強調することです。すばらしいもの、きちんと補修したものをイラクの人たちに渡していこう。日本人らしい、"ものづくりへのこだわり“を大切にしていこうと考えています」と話す。

最近では、学校や病院などの公共施設も整備され、稼働する工場も増えるなど活気も出てきた。復興が進むにつれて、自衛隊の活動内容にも変化が出てきており、立花群長は「(自衛隊が)イラク入りした当初は、それぞれのニーズに基づいて逐次、応急処置的な作業を行っていたのですが、外務省などと共に、より組織的に支援活動を行っていく段階に入ってきたと考えています」と説明する。
 当初、自衛隊が宿営地の浄水装置を使用して行っていた給水活動は、近傍に日本のODAによる浄水設備が整備されたことで一段落。現在、最も力を入れているのが既存の水道管の補修など水道ネットワーク全体の整備だという。立花群長によれば「われわれが補修を終えると、サマーワで1日3万6000トン、ムサンナー県全体で11万トンの水の供給が可能になります。これで夏季でも最低限の生活用水の確保ができるようになります」と言う。

 また、医療支援についても、以前は医療施設の復旧や機材の供与などが中心だったが、サマーワを含むムサンナー県の中心的な4つの病院と地域の診療所を結ぶ外務省のODAによる救急車の供与により、県内の医療ネットワークの整備に重点が置かれるようになった。「サマーワ母子病院で、分娩直後の新生児の死亡率が、この2年間で約3分の1に減ったことを成果として紹介したい」(立花群長)。
 公共施設の補修が終わるたびに、日本側の代表として竣工式に出席する立花群長は、地元の人の感謝の言葉を聞く機会も多い。中でも特に印象に残っているのが、ムサンナー県のスポーツ局長から「日本隊の補修はすばらしい。日本隊は必ず約束を守ってくれる」と言われたことだという。また、サマーワの地方紙の社説で「日本隊が来る前は、われわれは日本隊を占領軍だと思っていた。しかし、実際に来ると、笑顔でわれわれに接して、まるで古くからの友人のようだ。これは日本隊が高い倫理観と道徳のある国からやってきているからだ。日本は古くから立派な伝統を持っている」と取り上げられたことも、忘れられない思い出だという。立花群長は「約束を守ったり、地元の人へのあいさつを徹底したり、というのは、自衛隊の特性ではなくて、われわれが小さなころからしつけられてきた日本人としての習慣であり、文化なんだろうと思います。現地での高い評価はこういう"日本人らしさ“に対するものでもあるのだろうと感じています」と話していた。


イラクの人々のやる気を引き出す支援活動

サマーワ周辺での活動には、2005年から技術アドバイザーとして、防衛施設庁の建築や土木の専門家も参加している。昨年6月から10月までの4カ月半、学校や診療所など50件の補修工事に現場監督として携わった、同庁建設企画課の宮崎順技官は「サマーワでは『日本隊が補修した建物はきれいだから見分けがつきやすい』と言われています」と胸を張る。
 レンガを積んだり、壁を塗ったりと実際の作業を担当するのは、イラク人の技術者。彼らと協力して工事を円滑に進める秘けつとして、宮崎さんは「実際には、現地の技術者の能力にはばらつきがあります。中には日本人より上手な人もいますが、技術力の差を縮めるために、誰が見ても同じチェックができるような細かい項目のリストを作ること。現場の細かい部分まで写真を撮って記録することを心がけました」という。
イラク人は大らかで細かいことを気にしない性格の人が多いため、当初は壁のペンキの塗り方も荒かったそうだ。宮崎さんは「『汚いからやり直し』と言うとみんな『ノープロブレム』と言うんですよ。無断で仕事を休んでも『ノープロブレム』。日本の常識は通用しません。一度、『素晴らしいですね』と言ってみたら、みんな別人のように働きだした。プライドが高いから、評価されると喜んで働いてくれる。現場に行くと、向こうの技術者が自分が塗った壁を見せて『俺が塗ったところがナンバーワンだろう?』って自慢してくるようになって、能率も上がりました。きれいだ、きれいだと言うと、本当にきれいにできあがっていく、楽しい現場でしたよ」と振り返る。
 一度、信頼関係ができると、とことん協力してくれるのもイラク人技術者の特徴だったという。「ヤーシャルおじさんという最年長の技術者は、工事現場でいたずらをする子どもを見かけると、その子の家まで行って『日本人は外国からわれわれのために来てくれているんだから』と説教してくれました。現地での採用にあたっては、性格を重視しました」と宮崎さん。
 宿営地から工事現場まで車で1時間ほど移動すると、地元の人たちが沿道に集まって、親指を立てて歓迎の気持ちを表してくれる姿をよく目にしたという。宮崎さんは「私の見たところ、支持率99%という感じでしたよ」と話す。
 昨年末、国民議会選挙を終えたイラクは、ようやく本格的な復興への道を歩み始めたところだ。イラクの人々による復興を応援するための日本の人道復興支援活動も、サマーワの人々の間に根付き、実を結び始めている。


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今回でイラク復興支援の話はおしまいです。
卓話をお聞きしてからいろんな事を想像し、調べ、考えました。
私たち一般人に出来ない事を自衛隊の方々にやってもらっています。
中には、「それが仕事なんだから」や、「我々の税金で給料もらって
いるんだから あたりまえ!」と言う人もいます。ですが、総動員で
しか出来ない事、危険な場所への救助、お金に代えても出来えない
作業をしてもらっているのです。決して偏った考え方をしているのでは
ありませんが、感謝したいものだと感じました。


2006年03月24日(Fri)▲ページの先頭へ
イラク復興支援〜立花尊顯1等陸佐の講演を聞いてA
都城ライオンズクラブの例会において、第8次イラク復興支援群群長であった、陸上自衛隊第43普通科連隊長兼都城駐屯地司令である立花尊顯1等陸佐の講演がありました。

今日は、新聞書誌に掲載された記事の紹介をいたします。

宮崎日日新聞(2006.3.20掲載)より

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 ―イラク南部サマワで4カ月間にわたって復興支援活動を指揮・統率されました。帰国から1カ月、今の率直な気持ちを聞かせてください。

 立花 日本と日本人の素晴らしさを再認識しています。南九州の部隊を基幹とした第八次復興支援群の隊員500人は愚痴一つ言わず、それぞれの任務を達成してくれました。私自身も日本人で良かったと感じています。

 ―いざ、活動を開始して想定外だったことはありませんか。

 立花 自衛隊が活動しているムサンナ県の治安は比較的安定しており、情勢などは思った通りでした。発生したことはすべて想定内であり、戸惑うことなく落ち着いて対処できました。出発前、徹底的に訓練したからできたことですが、あえて言えば、国の代表として外国で部隊を率いる任務の重さ、指揮官の責任を予想以上に重く感じたことでしょうか。

 ―帰国した隊員たちは口々にイラクの子どもたちのキラキラした瞳が印象に残ったと話します。

 立花 あちらの子どもは、はにかみ屋なんですが、そこが愛くるしく、何でも興味を持って目を輝かせながら近寄ってきます。戦争による破壊や圧政を体験しながらも明るく、元気に生きる子どもたちの姿を目の当たりにすると、支援活動にも力が入ります。



 ―復興支援の内容について教えてください。

 立花 派遣開始から2年間で125の事業を手掛け、うち79事業が終了しました。現在は36事業を実行中で、さらに10事業を準備、計画しています。サマワにある四つの主要病院で医師、救急救命士の教育、施設の補修を実施しました。支援内容は基礎インフラの補修などのほか教育、福祉、環境、治安など幅広い分野に及び、自衛隊に対する現地の評価は高いと自負しています。



 ―第9次群をもってイラクから陸上自衛隊は撤収します。その後のイラクについて心配はありませんか。

 立花 撤収にのみ焦点が当たるのは間違っています。災害派遣と同じで、自衛隊は復興支援の第1ステージを担うためにイラクに派遣されたわけです。撤収は復興支援の終わりを意味しません。速やかに、次の段階へ移行するでしょう。完全復興には、まだまだ時間とエネルギーがかかります。撤収は、むしろ本格的な支援の段階に入っていくことを意味します。



 ―群長としてイラクへ赴き、復興支援という任務を達成できたことを誇りに思いますか。

 立花 もちろんです。日本の代表として、イラクと日本のために働けたことは自衛官として大いに勉強になりました。文化は異なっても人は理解し合えます。イラク人は一見、とっつきにくそうな顔をしていますが、気持ちは通じます。涙を流して別れを告げにきたメディアの現地スタッフもいました。人と人はつながるもんだなぁ、と実感させられました。(都城市・陸上自衛隊都城駐屯地で)




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日本は、イラク以外の多くの国で救助・復興支援等を行う際、大多数の人が、お金を出すことで解決していると考えているのではないでしょうか?それは日本国民ならず、諸外国の人々も、「日本は金しか出さない!」と思い、口にも出しています。
金で解決しようと思われるのは、日本が軍を持たず、戦争を放棄し、非核三原則を持っているからです。だから諸外国からは非難され、国内では支援に向かう自衛隊の方々に対し誤解や偏見があるのだと思います。私自身、実際、話を聞くまでは誤認していました。しかし実際は、自衛隊の活動というより各業者(大工・左官・水道・電気・医療・・・)とさまざまな職種の代行活動が主となっているようです。その活動を行うためには、出発前から随分と訓練されたのではないでしょうか?
私たちの安全を守るために、代わりとなって危険な地へ赴き、そして支援活動を行う、一部のマスコミや政治家は「自衛隊ではなく、もはや軍隊である!」といったことを言って非難していましたが、なんのことはない、遠いイラクの地でイラクの人の生活と安全を、同時に日本国民をも守ってくれているのだと改めて気づきました。
感謝したいと思います。
西田


2006年03月23日(Thu)▲ページの先頭へ
イラク復興支援〜立花尊顯1等陸佐の講演を聞いて@
都城ライオンズクラブの例会において、第8次イラク復興支援群群長であった、陸上自衛隊第43普通科連隊長兼都城駐屯地司令である立花尊顯1等陸佐の講演がありました。
今日から、この公演において感じたことと、内容、新聞書面にて紹介されている内容等を綴っていきたいと思います。

○第8次イラク復興支援隊 
  第8次イラク復興支援隊は、昨年の10月22日に出国し、今年の2月26日に全員無事に任務を果たし帰国しました。この支援隊は『希望、真心、絆』をスローガンとし、<希望の架け橋となろう。日本人らしい真心と絆をもって>を合言葉に頑張ってこられました。
 ほとんど休みがないので、曜日を確認するため、毎週木曜日の食事はカレーライスだったそうです。
 サマーワ新聞に掲載された日本の自衛隊関連の記事の中に、「道徳と倫理を保持した立派な人々である。『古きニッポン』の子孫として愛情と倫理観にあふれる彼らは、偉大なる文明を保持するとともに、他の国家を尊重し、他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な伝統を持っている」といった内容のものがあったそうです。日本の自衛隊が、イラクの人々に受け入れられ、立派にその役割と責任を果たしていることがうかがわれます。
 立花群長の言葉の中に、印象的な言葉がありました。それは、「失敗に対する不安や非難はなんにも生み出さない」という言葉です。誰かが失敗した時に、そのことを不安に思ったり非難をするのではなく、その原因と対策を考えることが大事だということでした。まさにその通りだと思いました。


サマーワ宿営地で陸自派遣部隊を巡閲する額賀長官(最左:立花尊顯1等陸佐)


『希望、真心、絆』のスローガンは、英文字に直して頭文字を取り 

KMK作戦

と呼ばれていたそうです。このKMK作戦、じつは、熊本・宮崎・鹿児島の意味だったらしく、火の国熊本らしく情熱あふれる希望を持ち、宮崎の人柄のように優しい真心を抱き、鹿児島の人情あふれるを胸に、この復興支援活動を意義あるものにすべく、基本を徹底した活動を目標にしていたという事でした。

自衛隊の皆さんが行った活動は、治安を守るだけでなく、

●生活の基盤となる学校や道路などの復旧活動を行い、ムサンナー県の子どもたちが安心して学校に通えるようにする。

●ODAによる医療機材・医療品の供与を行い、これらを用いて医療機器の取り扱いについて専門的な知識を持った医官などにより、イラク人医師への技術指導を行う。(この結果、サマーワ母子病院では、自衛隊支援前の2002年に比べ、分娩直後の新生児死亡率が約1/3に改善していると言われています。)

●自衛隊による給水活動以前は川の水を飲み、子供たちが病気になることもありました。現在は、我が国のODAにより設置された浄水設備が稼働し、業務を引きついでいます。

●イラクの人々の健康な生活のためにさまざまな支援物資を運ぶ。2004年3月3日からこれまでに運んだ輸送物資総重量は約369.4トンにも上ります。

・・など、私たちの想像をはるかに超えた活動を、着実に、しっかりと行っていただいていることが分かりました。

明日は、新聞書誌に掲載された記事の紹介をいたします。

西田


2005年11月05日(Sat)▲ページの先頭へ
川嶋あい・・・
川嶋あいの歌は、とても正直だ。
嬉しい、悲しい、つらい、切ない…胸いっぱいに膨らんだ思いを、ありのまま表現している。そして、どこか“ガマン”して生きている僕らの心を、すっと解放してくれる。懐かしいようで、どこにも無かった、歌。どうやって、誕生したのだろうか。

芸能事務所と契約し中学卒業と同時に上京、しかし、程なく契約は解除。しかし、歌手になりたい、歌っていきたい…この一心で、川嶋あいは路上に立った。2002年5月の事だ。
しかし、全身は緊張に包まれる。まともに歌うこともできない。このままじゃ…そう思い、彼女は決めた。路上ライブを1000回やろう、と。

決意も新たに歩みだした川嶋あいは、その後、渋谷の街で歌い続けた。そして、サポートしてくれる仲間たちとの出会い、「5000枚のCDを手売りする」「渋谷公会堂でライブ」という壮大な目標の達成などを経て、とうとう'05年3月30日、原点である“渋谷・ハチ公前”で、1000回目のライブに到達したのであった。その間には、テレビ番組『あいのり』の主題歌をユニット「I WiSH」の“ai”として歌い大ヒットを記録するという“事件”もあった('03年2月)。
しかし、渋谷公会堂ライブまでの半年間、“ai”が誰かは公開されなかった。路上ライブを続けてゆく為、だった。目標を貫く― 挫折を知る彼女には、ひとつひとつの瞬間の積み上げの大切さ、それが身に染み込んでいたんだろう。

いま、川嶋あいは多くの人が知る存在となった。思いがけぬチャンスの到来も、すべて、彼女が「歌いたい」と思った心の強さ、そしてチカラがあったからだ。その歌は、たくさんの“心のチカラ”になっている。失くしかけた、大切な心の一ピース…「思うことの大切さ」が、ここにあるからだ。

施設で育ち養女として育てられ、その義母から多くの愛を貰いはぐくまれ、自分に負けない心を養ってきた。歌手として歌う姿を一度も見ることなくこの世を去った母に、川嶋は本当に悔やんでいるという。「あいのり」の歌を唄う事が決まったと知らせた数日後のことだった。楽しみにしていた事だろう。しかし、きっと見ていてくれるはず、嘘のない真っ直ぐな心のあいのうたを・・・。


2005年09月28日(Wed)▲ページの先頭へ
短い命を刻む少女アシュリー
通常の8-10倍の速度で老化する難病・プロジェリアに冒されたアシュリー・ヘギちゃん。平均寿命13歳という過酷な運命を受け入れ、前向きに生きるアシュリー。 今年の5月。アシュリーは14歳の誕生日を迎えました。プロジェリア患者の多くは、10歳になる前に他界しています。その中にあって、アシュリーは平均寿命を上回ることが出来たのです。この14年間、猛烈な勢いで進む老いと向き合いながら、人を愛し、その愛する人を失ったアシュリー。

私はこの番組に釘付けになりました。
生きる・・・とはどういう事なのでしょうか?
一生懸命生きて人生これからというときに幼い命をなくしていくのですね。正直なところ、はじめ見たときはびっくりしました。現実の世界なのか映画なのかと・・・まだ幼い子供があっという間に年老いてしまい、毎日難病と戦いながら生きている。母親ロリーもアシュリーちゃんも周りの人たちもすごく前向きに頑張っていて本当に励まされました。一番印象に残ったのは、生きている長さではなくどのように生きるかと言った言葉でした。最近私も、いつ何があるか分からないから、毎日を大切にしようと思い始めているのですが、アシュリちゃんやジョンくんのような子たちは、もっと現実的なのですね 自分の死も受け入れながら前向きに生きる強さにも本当に感動しました。涙なくしては見られないものです。私は今日この番組から沢山の事を感じ、考えることができました。弱音を吐きそうになったときにはいつもこの子達のことを思い出して、前向きに頑張りたいと思います。早く治療法が見つかり、プロジェリアが不治の病でなくなりますよう心から願っています。


/////以下に、アシュリーちゃんについてまだご存じない方へ、
番組の内容を紹介致します。

【番組内容】
背負った運命
 今から14年前の5月23日。カナダ・ロッキー山脈の麓にある小さな町で、一人の女の子が産声をあげました。アシュリー・ヘギちゃん。大きな目をしたかわいらしい赤ちゃんでした。しかし彼女は、通常の10倍のスピードで老いていく運命を背負っていたのです。800万人に一人の割合で生まれる難病・プロジェリアという病名を告げられたとき、母親のロリーは絶望の淵に立たされました。髪の毛が抜け落ち、頬(ほお)がこけていく娘。そうした現実を直視することが出来なかった母は、やがて酒や麻薬へと溺れていきます…。
 過酷な運命を、アシュリーと母・ロリーが受け入れていく姿。そして絶望の淵から這い上がり、懸命に日々を生きる親子の絆を描きます。


もう一つの絆
 世界に約30人という難病を抱えながらも、前向きに生きるアシュリー。彼女には互いを支え合い、共に生きてきた大切な人がいました。同じプロジェリアの患者であるジョン・タケットくん、15歳。
 冬休みを利用して再会した二人。アシュリーとジョンは、他の誰とも分かち合えない幸せな三日間を過ごします。そして別れの朝。別れは短く、互いに思いを残さないようにしてきました。しかしその日のアシュリーは、なぜかジョンを振り返らずにはいられなかったのです…。


ジョンとの別れ アシュリーのもとに悲しい知らせが届いたのは、去年の3月のこと。同じ運命を背負っていたジョンが亡くなったのです。最後に会ってから4ヵ月のことでした。訃報を知ったその日、アシュリーは少し動揺したものの、いつもと変わらぬ様子を見せていました。しかし三日ほどしてから、ジョンのためにセレモニーをしたいと言い出したのです。風船にジョンへのメッセージを書き、夜空に飛ばしたアシュリー。

 「さよならを言う必要はないわね。だって私の番がくれば、もう一度あなたに会える」

 その頃、母・ロリーに新しい命が…。ジョンと入れ代わるように、弟・エヴァンが生まれたのです。お姉さんになったアシュリー。しかし一方で彼女は、ジョンの死によって自分の命の限界を感じ始めていました。そしてアシュリーは、弟に何かを伝えようとします…ここでは、アシュリーが最愛の人の死をどう受け止め、残された自らの命の炎をどう生きようとするのかを描いていきます。


アシュリーの使命
 今年4月。アメリカの生物学者によって、プロジェリアの治療へつながる研究成果が発表されました。老化の原因とされる変形した細胞を、健康な状態に再活性することに成功したのです。しかし同時に、患者に直接治療がほどこされるようになるまでには、数十年の時間が必要であることも判明しました。つまりこの研究成果は、急速に老化が進むアシュリーにとって、その運命を変えることが出来ないことを意味していたのです。春先には気管支炎を患い、関節炎も悪化したアシュリー。すくすくと成長する弟・エヴァン(1歳)を抱き上げることも、もう出来ません。たくさんいたペットも人に譲らざるを得なくなっていました。自分で面倒をみるという約束だった犬や猫の世話が、身体への大きな負担となってきたのです。
 そんな中、14歳の誕生日を迎えることが出来たアシュリー。プロジェリアの平均寿命を超えたのです。しかし、100歳近い肉体をもつ14歳の心は、複雑な想いでいっぱいでした。小学校時代からの親友・クレアは、男の子と遊ぶことに夢中。めっきりアシュリーと会うことがなくなっていたのです。クレアは、アシュリーの病気のことを一番理解してくれていた一人でした。周りの少女たちも、大人の女性への階段を駆け上がり始めていました。
 独りで過ごす時間が増えてきたアシュリー。そんな孤独感と向き合う中、彼女は自分が生きている意味を必死で見つけようとしていました。世界のプロジェリア患者の中でも、年長者となったアシュリー。彼女がいま出来ること、それはインターネットを通じて、年下のプロジェリアの子どもたちにメッセージを送ることでした。このことが自分にとっての使命だと感じ始めていたのです…。

///////
改めて、私達がいかに満足な生活を送っているか、いかに不自由なき人生を当たり前に過ごしているか、深く感じ、そして感謝したいと思います。西田


2005年09月22日(Thu)▲ページの先頭へ
カーニバル
知的発達障がいを持つ11人とサポートメンバー、保護者などが一体となって活動している、宮崎県三股町で結成されたバンド「カーニバル」。

一人一人が明るく素直で元気!サポートメンバーとで行う

コンサートは、観客の心と心が一つになるような、そんな

あったかく、ほのぼのとするコンサートです。

もちろん、コンサートを開催出来るようになるまでの

道のりは、とても大変なものです。でも、みんな歌が

大好きなんですね! 練習を重ねて成し遂げました!

見る人すべてに感動を与えてくれるコンサートの中盤、

「カーニバル」のみんなが大好きな曲、「カーニバル」

のテーマ曲ともなっている歌「風になりたい

なんと、この歌を唄っている「THE BOOM」の宮沢和史さん

からメッセージが届きました。みんな大喜び!

「カーニバル」のメンバーがつくるコンサートが、

映画になったんです。タイトル「ありがとね」

ぜひ皆さん、見てください!きっと暖かい気持ちに

なれます!

アドレスは、
http://homepage2.nifty.com/carnival/index.htm



2005年09月11日(Sun)▲ページの先頭へ
大空真弓、多重がん闘病記
大空真弓さんについて、衝撃を受けました。
皆さんはご存じだった?私は知りませんでした・・

多重がん ・・・聞いた事が無かったです。これについて
勝手ながら文章をコピーさせて頂きました。
奥山さんにしかり、こういった病気と闘っている方々
は多いと思います。私には、どうしたら支える事が出来る
のか分かりませんが、なにか、考えてみたいと思います。

大空さんは今回、その多重がんとの闘病について
本を出版されました。以下、その内容です。

//////

女優、大空眞弓(65)=写真=が、自らの“多重がん”の日々を『大空真弓、「多重がん」撃退中!』(宝島社、大谷克弥、大野秀樹監修)=同左=で告白している。4度にわたるがん早期発見→処置の繰り返しを「モグラ叩き」と呼ぶなど、天性の明るさで乗り切る様子は、多くの人に勇気を与える。

 多重がんとは、転移でなく、それぞれ原発性のがんが次々と発生するもの。大空は1998年11月に告知された乳がんに始まり、2度の胃がん、03年7月に食道−と約5年で4度も体験。

 いずれも人間ドックの検診で発見、初期のため自覚症状はほとんどなかったという。

 「食道のときは相当大きくて、食べるときにつかえたはずって言われたけど、もともと食が細かったから…。検診は多くても年に2回、行かなかったこともあるし、タイミングがよかったのよね」と振り返る。



 ただ、乳がんでは左の乳房を切除、胃がんでは粘膜切除のため、潰瘍(かいよう)で入院が長引き、食道がんでは内視鏡による分割切除が前後6回に及ぶなど、聞いているだけで治療の苦しみが伝わる。

 「一度引き受けた仕事をおいそれと休む訳にはいかない」と仕事をしながらの入院生活に。

 それでも天性の明るさを発揮。乳がんの手術痕に「鮮やかな切り方ですねえ。畳職人みたい」と評し、食道がん後、「好きな親子(丼)が(口に)入んなかったのがつらかったぁ(笑)」。

 何より、「私はがんにはなるもの、あとはどこに出るかって思ってた。モグラ叩きみたいよ。どこでも来いって感じ」という考え方。というのも大空は、29歳で胃がんで亡くなった姉のほか、両親、異母妹もがんを発症し、自分も…という覚悟があったという。

 著書では、この家族にも触れている。2児のいる人妻だった母と強引に結婚した父は、後に二号、三号まで囲ったが、母と2人の女性は仲良く行き来し、母は死ぬ間際、2人に後を託したとか…。

 「何でもあり、でしたね。だから(芝居の)台本を読んでもあんまり驚かないの。おかげでクヨクヨしないかな」

 がんには「とにかく早期発見。なったときは、なぜ私が? って振り返らず、そこから道を切り開かなきゃ。悶々としてたら、もっと悪くなる」という心構えだ。

 すでに自身の葬儀(玉子葬)も計画済み、便箋(びんせん)に認(したた)めた「遺言」もあるというが、11月の明治座「細雪」など舞台出演もめじろ押し。 大空のがん撃退は続く。 



2005年09月10日(Sat)▲ページの先頭へ
33歳医者のガン漂流!
奥山さんのショックから、私なりに色々考えました。

奥山さんをもっと知りたくて検索している内に

ある33歳の医師のブログを見つけました。

33歳の若さで癌と闘っておられるのです。

奥さんも娘さんもいらっしゃいます。

ホントに頑張って欲しいです。

ブログは下記の場所にあります。みなさん

応援して下さい!

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33歳医者のガン漂流!

http://ameblo.jp/kubojya/theme-10000709107.html

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2005年09月08日(Thu)▲ページの先頭へ
台風の爪痕・・
大変でした!台風! 
私のいる宮崎県都城市は、そう大した被害は
少なかったのですが、宮崎が大変でした。

特に高岡町は床上浸水で町全体が
水没、都城から宮崎へのルート 国道10号線、
269号線、日南線、高速道路すべてが崖崩れの
ため不通になり、今日も宮崎へ仕事で行ったの
ですが、迂回路しかなく4時間もかかりました。
通常は高速で25分、下道で45分といった所
なんですが・・・
高岡町周辺は停電、断水、家屋の半壊全壊・・・
思った以上に被害が大きく、今日実際に目の
当たりにし、悲痛さを実感してきました。
また、行方不明のかたもいらっしゃるようです。

家財道具、畳、衣類・・・とすべてが濁流に呑み込まれ、
家主らは、それらを全て屋外へと運び出していました。

思い出の写真を干して乾かしている子供達、
ただ呆然と座り込む女性、
警察署内も郵便局内も銀行内も・・・

町を飲み込んだ台風14号の爪痕は、
その傷跡があまりに深かった。

何も出来ない私は、ただ涙をこらえるしか
ありませんでした。

早急な被害の回復と住民の方々の、心の回復を
お祈りし、お見舞い申し上げます。

西田





2005年08月29日(Mon)▲ページの先頭へ
奥山さんをみて思う事
深夜の再放送 NHK教育ETV特集にて奥山さんを特集した番組「オレを覚えていてほしい」が放送されました。かなり前から話題になっていらしたらしく、恥ずかしながら私は知りませんでした。

私同様、まだ奥山さんをご存じない方へこの番組の概略・・・

奥山貴宏さん、職業はフリーライター。今年4月、肺がんのため33歳で亡くなった。2003年2月、風邪をこじらせて訪れた病院で突然「余命2年」と診断された奥山さんは亡くなる前日までホームページ上に闘病日記のブログをアップし続けた。
死を考えたこともない、一人暮らしをする若い世代が急に命の終わりを告げられた時、何を支えにどう生きるか。この番組は、宣告された余命を越えて病と闘い、執筆に没頭した33歳の奥山貴宏さんと、その姿をインターネットや書籍を通して見つめた読者たちの記録

無くなられる直前まで執筆された小説『ヴァニシングポイント』
私はまだ見ておりませんが、命を削ってまでも書かれたこの小説を早速購入したいと思っています。NHK特集を見て、感動と、生きる勇気を貰いなみだが止まりませんでした。

奥山さんは33歳で亡くなりました。心よりご冥福をお祈り致します。
また、奥山さんのお母様が、奥山さんのブログの読者に対して書き込みがありました。青山さんが最後まで生き様を見せてくれたこと、読者への感謝・・涙は当分やみそうにありません。
そのアドレスは、
http://www.publiday.com/blog/adrift/000721.html。
です。
ではまた・・・。
西田


   


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